当山は千年以上の昔から、山伏がこの巨大な岩屋のなかに庵を結んで修行した行場だったと伝えられる。
天正九年(一五八一)八月のこと、島原の有馬の軍勢が直谷城に押し寄せてきた。
平戸城主松浦道可隆信が、直谷城主志佐壱岐守の兵と合流し、当山に陣を敷いた。
そして、有馬勢に向かって戦端を開き、弓に弦を掛けて戦ったところから、弦掛の地名が起こったという。
江戸時代も中期になって、安永二年(一七七三)この戦いで没した武士の霊魂を供養するため、藩主の命により、平戸藩菩提寺の正法院隆盛法印が弟子とともに弦掛山に入った。
そして、聖観音・十一面観音・薬師如来・大日如来・弘法大師の五体の石仏を造像して、大岩屋のなかに奉安するが、歳月とともに人々の記憶から忘れさられてしまった。
明治二十七年(一八九四)、世知原村に住む吉井クラは篤く観音を信仰しており、朝夕念じていた。
ある日のこと、突然の病魔におそわれ、病名もわからないまま、明日をも知れない難病に苦しんだ。
そのような夜、クラの夢に観音が現れて、「我は弦掛の霊山に住む観世音菩薩である。
大雨で土砂が崩れ、長い間土のなかにいる。早く人を遣わして、掘りあげてほしい。場所は滝壺より五尺のところである」と告げた。
さっそく家族に夢の話をして、霊夢の場所を掘ったところ、観音など数体の石仏が現れ、滝の水で洗い清めて岩場の奥に安置した。
家に帰ってみると、クラの病はすっかり治っていたという。以来、霊験あらたかな弦掛山は世に知れ渡り、堂宇が建立される。
そして昭和二十四年(一九四九)松浦市調川にあった西福寺の寺号を移して、今日に至っている。
・清水の滝がある大洞穴の奥の院
仙人山伏の修行道場とされた大洞穴の奥の院
・恵泉地蔵尊
九州二十四地蔵尊霊場第16番札所である
・西福寺本堂の外観
御本尊の十一面観音立像が安置されている本堂
・本堂へつづく石畳
秋は紅葉が楽しめる風情ある石畳